


前の週末に雪が降った北アルプス
もしかすると冠雪の稜線が拝めるのではないだろうか
そんな淡い期待を胸に、飽きもせず飛越トンネルまでロングドライブ
早朝のぴんと張り詰めた空気の中歩き始める
まだ朝陽の射さない森には、ダケカンバの裸木がほの白く浮かび上がり
梢の赤とのコントラストが幻想的だ
毎年のように見ているシーンに立ち止まっていると、今年も最後の奥黒部なんだと
ふと寂しくなってしまう
トンネル上から少し登り、有峰湖が見下ろせるようになったところで
何かの視線を感じたような気がして左手を振り返る
なんと!こんなところから?
視線の主は剱岳だった

その幻想的な森の上に真っ白に冠雪した薬師岳の姿
なんと美しい稜線だろうか
朝靄が流れる森の中、いつまでもここから眺めていたくなった
畏怖と祈りの山が雲海に浮いている
今も古代からの炎は鼓動しているのだろうか
御嶽の、その厳かな姿に自然と手を合わせたくなる

御嶽に魂を吸い取られている間に朝陽が上がりきり
朝霜が溶け落ちてトレイルはどんどん濡れ始め
乗鞍が見える頃には青空が広がった


鏡池の手前辺り
足元の濡れ具合は気になるが、この晴天に冠雪の薬師だ
この先の展望を想うと俄然速足になる
寺地山のピークを越え、樹林の窓を開けると


薬師の向こう、剱までも白く化粧して待っていてくれた
その狙い通りの風景に立ち尽くす
いつもならここでまったりと過ごすのだが、今日は急ごう
あの稜線の向こう、奥黒部の姿を目に焼き付けるために
寺地山からは150mほど下りきり、そこから湿原地帯を越えて
600mほど登り返して北ノ俣、これがなかなか厳しい登りとなるが
今日はまさにそこに立つための登山なのだ
と、ずんずん下りきったところで何か違和感を覚え脚が止まる
なんだこの匂い?

あ!
濃厚な獣臭がしたと思った瞬間、ほんの5mほど先に大きな黒い塊が動く
その瞬間、辺りの空気が凍り付き、無音の世界となった
じっと立ったまま息を殺していると、その塊は微動だにせず
黒く厚い毛並みが、薄暗い森の中で光っている
重い息遣いすら感じる距離、その背中でこちらの気配を察しているのが分かる
どうする?後ずさるか?いや無理だ、動けない
5秒、10秒、15秒、20秒、、、
突然にゆっくりと動き出した黒い塊は音も無く登山道から右手へ消えた
永遠に思える30秒が過ぎた後も動くことが出来ず、やっと辺りの空気が緩んだ頃
情けないことに膝がガクガク状態で、振り向き振り向き寺地山へと登り返す
そんな緊迫した時間の事なんて何も知らない晩秋の青空の下
寺地山でやっと平常心に戻る
熊の住む域に勝手に入り込んだのはこっちだ
許して貰えただけ良かったじゃないか
何度も同じ独り言をこぼしながら
いつまでも恨めし気に薬師を眺めていた


思い起こせば登山中での熊遭遇は、大峰、真砂岳の二度だったか?
あとはまさに、この北ノ俣岳登山口で見かけた子熊に
直ぐ近くの有峰湖畔道で見た親子熊だった
いずれにせよ、今日は今までで最接近だった


山の主である彼は冬の眠りを迎えるための糧を探し求め
自分は冬を迎える前の奥黒部の空気を求め
トンネルまでの下山
求めるものが異なる者たちの一瞬の邂逅を想う
あの熊も自分が会いたかった晩秋の奥黒部、その山の一部なんだ
そう想うと、あれだけ感じた恐怖は自然への畏怖へと変わり
今頃、どの尾根を駆けているのだろうか、どの谷へ下っているのだろうかと
ひとり彷徨う熊の姿を思い浮かべながらの下山となった
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